秋の日記

いつだって秋。

サミュエル・ベケットの時代

おはようございます!

今日は朝も早くからちょっと難しめな文を書いてました。

一部抜粋を置くので読んでみてね。それでは!

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 ベケットの作品に常に描かれているのは不在である。

 誰かもはっきりわかっていない存在を待ち続けるゴドーや、逆に何かわからないものを探し続ける小説三部作に始まり、読者はそこに描かれているものよりも、そこに描かれていないものの方に注目を余儀なくされる。それは時に「体」であり「音」であり、私たちが当然持っているはずの社会的な属性(人種・年齢・性別・階級)だったりする。このような「不在」の作品群は長期にわたり、ある種「哲学的」であり、「absurde(不条理・荒唐無稽)」なものとして扱われてきた。確かに彼の作品をサルトルカミュが唱えてきた「不条理」と重ねて見るのはとてもたやすい。また、マーティン・エスリンが記した『不条理の演劇』がベケットノーベル賞受賞に大きな影響を与えたのは否定できない。しかし、今日、ベケットの作品はそのような「哲学的」で「文学的」な「過去の偉大な作品」として片付けていいものだろうか。

 現代は揺れている。それこそ、現代自体が「何か分からぬもの」を待っている状態である。

 直近では2020年4月〜5月のコロナウイルスによる自粛期間があった。多くの人はいつ状況が良くなるかも分からぬかも知れぬ状況で自宅待機を余儀なくされた。そして、その状況下で我々が目にしていた情報は日々目まぐるしく変わり、新聞、テレビ、インターネット、どの媒体がどう言った基準で情報を発信しているのか、政府、メディア、研究機関、どれが信用にたりうる情報を発信しているのかさえ、曖昧になった。会いたい人には会えず、信頼できる情報は少ない。しかも、そこまでして守っているのは自分や大切な人々の身体である。

 皮肉にも彼の生誕から100年余りを経て、世界全体が「何かわからぬもの」になっている。

 ベケットの作品が監獄の囚人達に受け入れられてきたことは有名である。それは公演としても成功したし、囚人達自身が演じるプログラムとしても成功を収めた(公演前に楽屋から囚人が逃げ出すトラブルもあったようだけど)。然るべき場所で然るべき人を対象に行われたベケット作品の実演は決して「哲学」などではなく体験に直接訴えかけてくるようなエンターテインメントとなりうる。

 21世記を迎えて20年が経ち、世界がどんどん不安定になる中で孤立した自己とインターネットで繋がる他者とを生きる、そしてその出口は未だ不確かだ。この時代にベケットの作品はもう一度「哲学」でなくなるのではないだろうか。

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読んでくれてありがと!