おはようございます。
たまには朝に文章を書いてみようと思います。
自主隔離期間中の読書第二弾ということで今回はじゃん!
「反哲学入門」という本読みました!難しそう。
もともと卒業論文でベケットの小説中の体や音を元にした「今どこにいるのか?」という問いに対する考察という様な哲学に近い様なことをやっていたんですけど、その発表を見てくれた友達から言われた印象的な言葉がありました。
「発表おもしろかったよ!でもさ、なんで"いる"とか"いない"とか悩んじゃうの?私迷わないよ。私ここにいるもん!」
これを聞いた時、自分は卒論書いて(実はまだ完成はしてません)発表して良かったなーって思いました。半年間、真面目に作品に向き合って自分なりの考え方を人前で話してその上で意見が違う友達に出会えたんです。そんな発見はなかなかありません。
少し感覚的な話になってしまいますが、私は割と小さい頃から自分は本当にいるのかなあ、ということを漠然と思っていました。自意識が人より強かったのか、弱かったのかわかりませんが、しばしばちょっと広い部屋の中に1人でいる夢を見て、あ、もしかしてこっちの方が現実なのかな、と思ったりしてました。それに寝ている間だったりぼーっとしてる時は感覚的には「無」に近いのに世界が連続していて、世の中はずっと動いていて偉いなあ、とか思ってました。
ただ、その友達の言葉を受けてそれって結構私独特の感覚?と思う様になりました。
少なくとも「私いるもん!」派もいるなと思いました。
じゃあ、その辺を感覚だけじゃなくて理屈でも考えられた方が良いのかなと思い、本書を手にした訳です。前置きが長くてすみません。
「反哲学」という名前がついてますが、この本はとてもわかりやすい哲学史の本です。ただ、世界の成り立ちだったり、ものがどう「ある」のかについて、「作られたものである」とするプラトン〜18世記までの「哲学」と、それらは「生成するもの(勝手に現れてくるもの)」であるとするニーチェやハイデガーらの「反哲学」に分けられると主張しているところが独特だと思います。キリスト教がベースにない日本人にとっては作り手(絶対の存在、神とか)に頼らない反哲学の方が馴染みやすいんだとか。
読んでいてまず思ったのは「私、こうゆうこと知らないでよく卒論書いてたよね…」という反省です。いや、やってる時は作品を突き詰めて考えていく中から答えを探さなきゃ意味がない、とか思ってたんです。でも実際に勉強すると、ベケットの作品が哲学の歴史の中でもとても尖っていたことがわかって、さも自分が見つけたぜ!ってしてた自分恥ずかしってなりました。
そして次に思ったのが今の時代はわかりませんが第二次世界大戦の頃くらいまで思想と政治、社会の距離って近かったんだな、ということです。古代ギリシャでは哲学者は為政者の教育者になることが多かった様ですし、19世紀に科学の力が増す時もそれを正当化する哲学が生まれました。そして、ナチス・ドイツやソ連を形成したのも紛れもない思想です。もちろん、それらは崩壊することもありますが、その時々では直接的にせよ間接的にせよ世界を動かしているし、当たり前の様に見えることでも、今の時代を正当化する為に作られた「当たり前」という見方もできると思います。
さて、長々と書いてしまいましたが、最後にその友人との会話の続きを書いて終わろうと思います。
友達「なんで"いる"とか"いない"とか悩んじゃうの?私迷わないよ。私ここにいるもん!」
筆者「えー、でも、私はいないかも」
友達「いるじゃん!ほらほらあ!」
筆者「んー、でもどこにいるかわかんない」
友達「ここだよ!ほら!あなたは!ちゃんと!いる!」
誰かに自分の存在を主張され続けるのはとても不思議な気分になりました。
ありがとう。