秋の日記

いつだって秋。

悪ぶる優等生

こんばんは!

今日は多分二つの記事を書くと思いますがまずは1本目、「悪ぶる優等生」。

みなさん、中高時代はどんな学生でしたか?そして今はどんな感じですか?

過去の質問に答える時、一定数「悪ぶる」人っていると思うんです。

悪ぶると言っても人をデッキブラシで殴ったとかではなくて、学校を途中で抜け出して旅に出たとか(ちゃんと夜には帰る)、窓ガラスを割ったとか(ちゃんと人がいない時に)、そう言う比較的悪くない悪。

反対に「今から抜け出すぜ」とか「これから割ってこうぜ」と言う人は少ないです。同じ悪なはずなのに未来の悪を語る計画的なアウトローはあまりいません。

どうしてなのか。この場合「過去の悪」はある程度アクセサリーとしての効果を発揮している様に思えます。「昔はこうだった、でも今はこうなった」と言う暗示です。ただ、今の自分をとても良い人にするのは難しいし、何より昔から今に至るまで知っている人なんてそうそういないから、昔の自分を下げることで今の自分を上げると言う手法です。その証拠として「殺人」とか「詐欺」とかを気軽に語る人はいません。それは今の自分の評価にも決定的な評価を及ぼすからです。

ここまで、過去のヤンチャを「悪ぶる」人に対してやや辛辣な態度を取ってきましたが、私が時々やってしまってとても後悔することとして、他者の理解の為に自分の経験を「悪ぶる」と言うのがあります。

例えば、ロンドンのパンクロックの人たちが歌う歌詞に私がとても感銘を受けたとします。そして、自分も何かに反抗したりとりあえず"Fuck"って言ってみようかな、とか考える。でも、ライナーノーツで彼らの生い立ちを読んだり、中高の図書館に行ってイギリスの格差社会の実情やカウンターカルチャーの歴史を調べると、そんなこと言えない自分に気づくんです。

義務教育どころか高等教育まで受けていて、健在な両親がいて、人種的な差別もそんなに受けてない。あれ、私って"Fuck"って言われる側じゃない?パンクロッカーとしてあまりにも早い挫折を人は味わいます。だって、反抗するものとかないもの。

音楽だったらまだ良いのですが、貧困だったり、LGBTだったり、人種差別だったり、人は他人の苦しみを聞いた時、つい「自分もね…」と言いがちな気がします。「貧困層ではないけど丁度支援を受けづらい層で」「どっちもいけると思ったことはある」「交換留学中に中国人に間違われて」…言ったことある気がするな…嘘ではないけど。そんなことをつい言った日の夜、私は自己嫌悪に苛まれます。「そんなミニマルな経験で同情したつもりかよ」と言う声が頭の中に響いてきます。これは「悪ぶり」ではないけれど、最悪の自己演出です。「悪ぶる」より悪い。

つい感情的な文章になってしまいましたが、改めて思うのはなるべくさっぱり生きたいなあ、ということです。なんかこう「悪ぶり」も「偽り」もせずに生きていけたらいいよね。せめて、そうできるときは。

恵まれた生い立ちを自覚しながらも、世の中のいろんな"Fuck you"を考えていけたらいいなあ、と思った夕方でした。

 

お疲れ様です。