こんばんは!
どうも最近、色々あった筆者です!嬉しいことも残念なことも!
今日のテーマは「自己表現」について
最近、私の歳の離れた友人が「最近の人はなんでも世界に向けて発信する」と言っていました。世界…確かにSNSやYoutubeなどでの発信はある意味で世界に向けて自分を開いていくことです。そして、それはここ十数年で急に流行ったことでもあります。
電話やメールや時代、日々の出来事を遠くの誰かに知らせようとしても、その数はせいぜい数人だったと思います。しかし、例えばインスタグラムでは数十人から数百人に自分の日々を公開することになります。
その友人は続けてこう言いました。
「そんなにみんな自分のことを知って欲しいのかな」
友人曰く、かつては表現者はずば抜けた才能がある人かそれをやらないと死ぬ人だった、でも今はそのどちらでもない人が自分のことを発信している、その発信のゴールはなんだ?
この問いは(一応)現代の若者である自分には結構きつく響きました。
私はこのブログを書いているし、他のSNSで描いた絵や撮った写真を載せています。
もし、書く(描く)ことだけが純粋に楽しいなら、それらを公開する必要はありません。
なぜ公開するのか?その答えは多分「注目が欲しい」だけだと思います。
早い話、人からの反応が欲しいし、反応はなくても見てもらいたい、ストレートに書くと情けない話ですが、商業的なアーティストでもない私はシンプルな承認欲求を満たす為に自分が作ったものを人目に出しています。
ただ、そう言った欲求自体はいつの時代もあったのではないか?ということで、きっとアーティストじゃないけど認められたい人や、注目を浴びたい人はいたと思います。でも、今みたいにすぐに「公開」できない時代の人々はこっそりその思いを抱えながら日々を生きたり、自分が会える範囲の人にそういった欲求をぶつけていたんじゃないでしょうか。
音楽でも、パンクロックの反骨精神だったり、ジャズの奔放なスタイルにはある種の鬱憤を感じます。もちろん有名な曲やミュージシャンは「公開」されているのですがその音楽のスタイル自体にある種の苛立ちからの爆発や逃避を感じる様な気がするのです。
もちろん今の時代には今の鬱憤があって、今の表現があります。私はそれも好きです。
むしろ音楽として面白いのは今の方が多いな、思います。
ただ、こうして文を書いている自分を見つめた時、かつてよりチープでインスタントな時代を生きているな、と強く感じます。それに救われている部分もあり、難しいところではあるのですが。
まあ、難しいことは置いといて、
おやすみなさ〜い