秋の日記

いつだって秋。

融和と分断の午後5時20分

こんばんは!

先ほど、道端で子猫を見つけてかわいいなーってしてたら親猫に威嚇されました。

この場を借りてお詫び申し上げます。ごめんね。

動物には動物のルールがあるんだな、と強く感じた瞬間でした。

でも、

これは翻って人間にも言えることで、自分としては全く悪意のなかった行為が誰かのルールを破っていたり、不快にさせてしまった、ということは誰しも経験があると思います。

例えば私は高校生の頃、1ヶ月ほどアメリカにいたのですが、ホストファザーに昼間のカジノを見学させてもらった時、思わず携帯で写真を撮ったら、人生で初めて黒服の方々に引きずられて店の外に出されました(賭博場は撮影禁止が多いから要注意)。

こう聞くと、なんだ海外の話か、と思われるかもしれませんが、こういったズレは世代間や個人間でもあります。例えば、ワイルド目な人は綺麗好きな人が気になる床のちょっとしたザラザラ感とか、使った食器が半日放置されていることに気付けません。

もし、この2人が同じ部屋を使ってたりすると、必然的に掃除の分担などが偏ってしまうので、綺麗好きな人はワイルド目な人のことをやや嫌いになってしまうかもしれません。

もちろんこういった問題の解決に必要なのはお互いの価値観を尊重することなんですけど、それには融和的なものと分断的なものがあります。

融和的なものはワイルドな人が綺麗な人の価値観を理解して掃除をするパターンで、分断的なものはワイルドな人が使うエリアと綺麗好きな人が使うエリアを分けることです。

社会的には前者の方が称賛されそうですが、私としては後者もありだと思います。どちらかが融和の為に心的負担(ストレス)を感じてしまうくらいなら一つの空間に二つのルールをセットする方がいいです。

例えば、日本では「ベジタリアン」と言うとおそらく次に来る質問は「え、なんで?」だと思います。まあ、その好奇心は大事なんですがベジタリアンの理由ってざっとあげても①健康上の理由②宗教上の理由③思想的理由(動物の倫理)などあって、まあまあ、説明大変そうだし、特に③とかだとなかなか理解してもらえなかったり、「いや、でもちょっとなら」とか勧められたりしてしまいます。私自身はベジタリアンではありませんが、たまにこういうやりとりを横から見ると相互理解という名前で一方がもう一方を寄せにかかってるだけの様に思えたりします。

それくらいなら「あ、そうなんだ。じゃ、ご飯じゃなくてお茶にする?」とか「モスならいける?」みたいにとりあえず受け入れちゃって別の提案した方がいいと思います。

仕事などで共通の目標がある(売り上げを上げるとか)の場合においては相手を説得するとか、相手の理論の甘い部分を指摘するとかは大事だと思いますが、生活においては融和することって本当に大事なのかな。むしろ、お互いの違いをほっときつつも緩やかに共存した方がいいのかもしれません。

「わかろう」とする気持ちは大事ですがそれが無意識のうちに「自分が納得できる説明」を求める気持ちになってしまい相手を苦しめていないか。

そんなことを考えながら帰路につきました。

猫との融和はおそらく不可能です。

 

でも、いつか共存したいなあ。

良い夜を〜。