秋の日記

いつだって秋。

違和感

こんばんは!

 

人間というのは不思議なもので時間があると色々なことを考えてしまいます。

そして、私の場合、何かニュースを聞いてすぐに考えが浮かぶというよりも、しばらくしてからじわじわと自分の中で意見が生まれてくることが多いです。

 

今日はあるテラスハウス出演者の死について。

 

私自身、そんなに熱心にテラスハウスを見ていたわけではないのですが、報道や友人から聞いた話で大体の事情を察しました。彼女の死の直後、著名人の多くはSNS等で声明を挙げ、インターネット上での誹謗中傷が人を死に追いやってはならない、と過激なコメントに対してのアカウントの特定やコメント自体の取り締まりについての議論が盛んに交わされています。

 

この議論をふんわり読んでいて、私は小さな違和感を覚えました。確かに、例え匿名と言えど度を超えた誹謗中傷は人を傷つけます。それは決して、許されることではなく、取り締まられた方が良い。警察・検察による特定も時には必要でしょう。そこに異論はありません。

 

ただ、思うのは「それだけで彼女は死んだのか?」というものです。

 

もちろん、数多の視線にさらされて、自分の行動について常に批判が付き纏う。それは大変なストレスだと思います。ただ、それは誤解を恐れず言えば、番組参加時でわかっていたことです。役者がドラマの中で嫌な役を演じて「死ね」と言われても、それはある意味で褒め言葉ですが、テラスハウスではその「死ね」は本人のパーソナリティに向けられてしまう。番組の構造自体がある意味で、個人の人生を切り売りしている以上、それは避けられません。

 

そんな中、彼女は本当に人々の声だけに殺されたのか?

 

私は「死」はもっと複雑で簡単なものだと思っています。ずっと死にたいと言いながら生きてる人もいるし、一時の気の迷いから死んでしまう人もいる。死はそんなに簡単に一つの要素でできていない気がします。例えば、生きることを考えた時(誰かに物理的に救われたことを抜きにして)誰か1人や何か一つの出来事のために生きているという人は少ないと思います。それまでの人生があって、その中であったことが複雑に絡んで「あなた」として生きているはずです。同様に、他人の死について「人々からの誹謗中傷によって死んだ」と断定することはあまりに邪推だと思います。

 

死を悼むことは良いと思います。ただ、一部の人は彼女の死を事例に自分の言いたいことを言っている様に見えてならない。それはある意味で彼女の人生に対する冒涜です。

あまりに人の死を単純化している。

どんなにテラスハウスを見ていようが、彼女のSNSを見ていようがそれは彼女の一部分でしかない。なぜ死んだのか(死因は現時点で明らかにされていませんが自殺と推定されています)は本人以外知りようがない。その状況で本来できるのは、死を悼むこと、それだけのはずです。

ただ、死を悼む。

 

今日は柄にもなく、感情的な記事になってしまいました。

 

おやすみなさい。