こんばんは!
今日も今日とて徒然と文を書いていきます。
今日はね、言葉の響きについて。
私がこのいかにも文学部!な問いに関心を持ったきっかけは、先日のブログに書いたT君の卒業論文のテーマが「名前」についてのものだったからです。彼はある西洋の詩に対する分析を通して、人間にとって名前がどの様な意味を持つのか、について深い考察を重ねていました。
彼の論文についての詳しい説明はここではしません(というより、できません)が、その発表を聞いて思ったのは、同じ意味を持つ単語でも言葉の響きによってとても印象が変わるよなあ、ということです。
例えば、「繊細」という言葉。
これだと、なんかちょっと素敵な感じします。
ただ、「神経質」とかだとちょっとマイナスで、「デリケート」「ナーバス」だとマイナスでこそないけどちょっと取り扱い注意かな、という印象です。
それから「HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)」=特別感受性が高い人という意味の精神医学上の概念(病気ではない)。もし、初対面で「私はHSPです」と言われたら実際の意味は置いといてなんだか強そうです。聴き慣れないカタカナは基本かっこいい気がします。
ちょっと書き散らしてしまいましたが、私が言いたいのは一つの特徴に対して、これだけ表現の手段があるということ。それはプラスにもなるし、マイナスにもなると思います。教育者がよく使うネガポ辞典(ネガティブな形容詞をポジティブに言い換えてる辞典)が良い例です。ただ、私はだから全部をポジティブに置き換えようって考えも嫌いです。それは逆に表現と感受の強制な様な気がします。
むしろ、言葉なんていいかげんなものだ、って思うことの方が大事じゃないでしょうか。
同じことを違う表現でいくらでも言えるんです。自分が好きな言葉もあれば嫌いな言葉もあるし、耳が痛いけど聞かなきゃな、的な言葉もあります。それはきっと単なる単語の連続が持つ意味に加えて、誰から何時、どんなシチュエーションで言われた(あるいは読んだ)のかという文章の外の要因も含めた「言葉の響き」で決まっていると思います。そしてそれはもはや、「正誤」ではなく「センス(好き嫌い)」の問題だったりします。
誰かのSNSやメディアの報道に関して怒る人も実は「内容」じゃなくて「言葉の響き」に怒ってるのではないかと思います。言葉に怒る人ほど言葉を過信している様な。全員にとって響きの良い言葉なんてそうそうあるものではないし(とはいえ怒るのは自由です)、歴史的にも救いの言葉は大抵あやふやです。
言葉を大事にしつつ、そのいい加減さも愛したいな、と思いました。
まとめがいい加減ですみません。
今日はこの辺で。
おやすみなさい。